“クズ”な男のクズたる所以を知る面白さ「窮鼠はチーズの夢を見る」

(映画「窮鼠はチーズの夢を見る」の感想です。ネタバレ含みますので、観賞後にお読みいただくのがおすすめです)

 

まず、大倉忠義さん演じる大伴という人間の描き方がとても良い。良かった理由として「人としてのだらしなさ、クズっぷり」にここまで説明がつく人物像の描き方があっただろうかレベルの描き方がされているところ、を挙げておきたい。

探偵依頼を受けた今ヶ瀬に不倫の事実を突き付けられた時の態度。

これが、「どうにかならないか…?」からの寿司。

これで「なんとか」しようとする大伴は、明らかに大学時代から今ヶ瀬が自分に気があったのを感じ取っていたからなんじゃないかと、演技から察する。じゃなきゃ、そのあとの唐突なキスシーンにはならないわけで。

大伴は「おい、なんだよ、そんなつもりなかったぜ…」な態度を貫きながらも、内心は「これでなんとかなるなら…」という気持ちは持ち合わせていたんじゃないかなあ。

 

そして、妻との朝食。完璧な部屋に完璧な朝食。この時の夫婦の会話がもう、全然自然じゃない。お互い全然相手までの距離を縮めようともしない。そして、終始夫側は「~してあげる」的で、完全に妻は夫から「何かをほどこされる」関係なのが分かる。唯一妻が自分の意見を言った「ホラー映画」に関して夫は、「ホラー映画?(そんなの観るの?)」的な反応。

夫婦で、これだけ距離感のある(のに終始笑顔な)食卓風景を見せられた頃には、もうこちらも(ハハァーン…ナルホドナ)と、なってくる。

 

 

不倫相手と会った理由も「(相手が)さびしそうだったから」。

不倫の事実を妻に知られたくない理由も「あいつは大事にしたいから」。

今ヶ瀬とキスやセックスにすすむのも「今ヶ瀬が望んできたから」。

 

大伴は自分がだらしない判断をしたときの理由を全てにおいて、「相手のせい」にする男なのだ。

そこを詰められた時の言い返し方も、ややキレくらいの口調であまり整合性のない理屈を繰り出す。

 

極めつけは、自分が不倫をしておきながらも、妻にはバレず、しかも妻から浮気のカミングアウトをされた時に出た「信じてたのに」。この言葉に、あの表情。これは、「根っから」だ。

 

なのに、大伴はモテる。

大学時代も、今も。

 

それは、あの顔とあの見た目、そして何事にも「イエス/ノーをはっきり言わない」ことで醸し出されてしまう、(この人優しい人なんじゃないか)オーラ。そこから生み出されるミステリアスさ。

 

 

これが、顔のよさ(とても良いので強調しておく)と相まって、周りの人を虜にする。

 

そんな周りの人の感情を、当たり前のように受け取って来た人生をここまで送ってきた人なんだろうなあ。大伴さんは。

人からの好意的な感情を受け取り慣れてるが故の、「人からの感情にありがたみのない感じ」は、大伴という人間を“クズ”という輪郭で型どるのに充分すぎた。

 

これは、大伴さんを演じた大倉忠義さんが圧倒的“顔の良さ”を持つ俳優さんであったことで成立する理論だけど、私はそう思ってます。

 

そして、そういう自分に無自覚でありながらも、これまた無自覚に人の喜ぶサプライズができちゃったり、無自覚に「来年も~」とか言えちゃう天然の優しさと魔性も持ち合わせているから手強い。それが大伴さん。

 

人からの好意的な感情を受け取り慣れた大伴が、自分の持つ感情を初めて確かめられた相手が、今ヶ瀬なんだよね。

 

「クズ」という言葉で片付けてしまえば簡単な大伴の言動には理由がある。そして単純に大伴が「ダメな男」というわけではなく、当然魅力もある。その「クズ」な部分さえ愛し受け止めてくれる相手がいることで、自分の感情と向き合う一歩を踏み出せた男の話だと思いました。

 

 

 

 

 

最後の方で今ヶ瀬が大伴に対して「次に付き合うなら、~な女がいいですよ。」って言う場面があるんだけど、これは、

「男である大伴の付き合う相手はあくまで女性」という、世の中的な「普通」の感覚が今ヶ瀬にもある…と考えてもそれは皮肉だし、

「大伴が次に付き合うのがもし男だったら」と考えるくらいなら、女であった方がいい…と考えてのことなのか、

「大伴は自分とは離れられない」とどこかで確信してるからなのか。

 

その辺りを考えながら観るのも楽しかった。

 

 

最後に。

 

この映画、出てくる女性が色々なタイプいたけれど、どの人も「ちゃんと存在してる女」だったのが良かった。ストーリーのために都合良く描かれた「そんなやつおるかい!」的な女がいなかったの、結構良かったなあ。

 

あと、食事のシーンがかなり多いんだけど、どのシーンもなぜかちっとも美味しそうに見えない面白さ。

タイレストランのスタッフの人なんて、あのテーブル担当になったのちょっと気の毒になったヨ…。売上げビール3本だし。

 

 

 

関ジャニ∞と渋谷すばるさんを好きでいること

好きなものを純粋に楽しみたかっただけなのにいつの間にか

 

「余計なことは考えないようにしよう」とか

「好きなものだけ見ていよう」とか

「好きだったものを嫌いにならないように」とか

「正直な気持ちから目を背けてTLの空気に合わせよう」とか。

 

そんなことばかり考えながら今日も自分と同じ気持ちを探す。

文字から得た"共感"という感情に一瞬心を救われながらも、目の前の世界は変わらなくて。

 

だけどその"共感"は「誰か」や「何か」を悪く捉える言葉で綴られている現実にまた心が重くなって。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは関ジャニ∞が好きです。

中でも渋谷すばるさんが好きでした。

今も好きです。

 

ただ、関ジャニ∞の全てを肯定しているわけではないし、

渋谷すばるさんの全てを肯定しているわけでもないです。

 

なんでこんな仕事するんだろう…と思うこともあるし、なんでこんなこと言うんだろ。とも思うこともある。

 

でも、私にとって関ジャニ∞というグループの素晴らしさや魅力は変わらない。関ジャニ∞はこれまでもこれからも最高のグループたと思ってる。

 

それは、関ジャニ∞の「中の人たち」と「メディアの中の商品である"関ジャニ∞"というパッケージ」を切り離して考えているからだと思う。

私は完全に「中の人たち」を愛している。

メンバー一人一人、賢くて優しくて、センスがあって、歌もパフォーマンスもこれ以上ない人たちだし、その一人一人が6人になって生まれる空気感は何にも変えがたい。

 

更に言うなら、「6人になったこと」で生まれたた新しい空気感には、「7人時代」では決して生まれることのなかった別の良さがある。

 

変わらないようでいて、関ジャニ∞は大きく「変わった」し、6人が関ジャニ∞を「変えた」のだと思ってる。

 

渋谷すばるさんが脱退を決意してからの今まで、どれだけの葛藤や思いを乗り越えて、ここまで来たのだろうと思うと、ますます彼らへの思いは強まってしまう。

 

関ジャニ∞」というもはや自分達だけのものではない巨大なパッケージを歴史ごと背負った真面目な人達だと思っています。

 

 

 

 

 

そして、渋谷すばるさん。

 

彼を語る時、わたしもついついやってしまいがちなのですが、彼は「唯一」とか「センス」、「空気感」という実態のない言葉と共に語られることが多い。

 

渋谷すばるさんは、ジャンルが「渋谷すばる」。この、クサい表現がバチっとハマってしまう人でもある。

 

「人」とか「人間」とか「生きる」みたいなド直球のワードをギラギラした眼で歌に乗せた瞬間、それは「渋谷すばる」というジャンルになる。

 

これは好き嫌いが分かれるジャンルでもある。その「渋谷すばる」というジャンルを「俺たちのすばる」という位置付けにした時に生まれるラスボス感が関ジャニ∞にはあったし、それが7人時代の関ジャニ∞の輪郭のひとつになっていたとも思ってる。好き嫌いが分かれる空気をうまく「みんなのもの」に型どる輪郭。

 

その「渋谷すばるジャンル」がソロになると剥き出しになる。よくも悪くも。

 

私は個人的に渋谷すばるさんは「良くも悪くも」の魅力をまとった人だと思ってるので、その「良さ」と「悪さ」が剥き出しになるソロ活動は、受け取る側によって捉え方がだいぶ変わるものなんじゃないかと思ってる。それくらい「紙一重」のバランスの上に存在する人。

私はその中の「良さ」を多く受け止めるタイプの人間なんだと思ってる。

 

 

 

繰り返しますが、わたしは渋谷すばるさんのことが大好きです。

ただ、そのド直球な「渋谷すばる感」を真っ直ぐ受け止めて愛でる器がないタイプの渋谷すばるファンなのです。

 

なんかモゾモゾしてしまうんです。

 

でも、逆に言ったらそのモゾモゾしてしまうド直球な世界観を「アリ」と思えるようになれたのは渋谷すばるさんのお陰なのです。時間はかかりますが。

また、そのド直球な世界観の「良さ」を教えてくれたのも渋谷すばるさんでした。

 

 

 

それでも正直「shubabu」には今も慣れないんです。これはほんと、申し訳ない。

パパママにも「嘘だろ?」という気持ち。

 

 

ツイートの感じもそう。とにかく、なんか、恥ずかしい。

 

 

一言で言うなら「思ってたんとちゃう」なんですよ。

なんか、こう、スパーン…と、楽曲配信かなんかからシンプルにスタートするイメージだった。少なくとも「カワイイ」世界観とは直接絡まないと思ってた。延長線上や深掘りした先に「カワイイ」があったとしても。

 

きっと、われわれファンとの距離も遠いと思ってた。でもそんなことなかった。

なかなかに近かった。少なくともSNS上では。

 

 

 

でも、この「思ってたんとちゃう」の「思ってた」カタチって、完全にこちらの思い込みでしかないわけで、つくづく自分というオタクは推しについて殆ど何もわかってなかったんだなあ、と感じた。

 

 

渋谷すばるさんて、その時その時のチャンネルやゾーンが少なからず言動に表れる人じゃないかとわたしは勝手に思ってるので、今はそういうチャンネルなのかなあ、とも思ってます。ツイッター、楽しいんだろうな、と。

 

ツイッターも、その他のことも今まで出来なかったことをとことん楽しんでくれてたらいいな。とはファンとして思っています。

 

公式ブログで届けてくれる言葉もいつも素敵で、読むたび人として渋谷すばるさんを尊敬してしまいます。

 

「しゅばぶ」的なノリが恥ずかしいのも、ほんと。

 

渋谷すばるさんの綴る言葉や考え方が大好きで尊敬してしまうのも、ほんと。

 

すばるくんのツイートに連なるリプで可視化された、「突然縮まったファンとの距離」に戸惑ってるのも、ほんと。

 

それでも歌声ひとつでやっぱりすばるさん最高だな、と思うのも、ほんと。

 

関ジャニ∞6人素敵だな、と思うのも、ほんと。

 

追い付かないくらいどんどん活躍してほしいなと思うのも、ほんと。

 

"大きな仕事"に心から喜べなかったのも、ほんと。

 

それでも歌やパフォーマンスを見ると最高だな、と思うのも、ほんと。

 

どの気持ちも偽りのない自分の気持ち。

気持ちなんていくらでも変わっていくし、変わらないかもしれない。

 

それでも、しょうがない。これが今現在の自分の気持ちなんだったら、それを抱えて好きなものをちょうどいいあんばいで見ていこう。

 

気持ちがザラついたり、モヤつくこともあるけど、その原因を「誰か」に向けないようにしよう。

 

元々同じものを好きだった人間同士の思いが、今これだけバラバラになっているのは、それだけのことが起きたということ。

 

怒りとか、悲しみを持つこと否定しないし、楽観的でいる人がいたとしてもいい。

 

ただ、誰かを責めたりすることはしないようにしたい。

好きなものを全て肯定しないといけないなんて思わなくていい、というスタンスで私は素敵な人の素敵な部分だけを愛でていく。

 

そして、その素敵な部分がいつか遠い未来交差することがあってもいいかもしれない。ただ、それは、ずっと先でいい。

 

 

袂を分かつた人達の行く末、どちらにも幸せが待っているといい。

それをこっそり楽しみにさせてもらうオタクでいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

筋トレを愛する女が筋肉吟遊詩人岩本照さんに痺れた理由

筋トレブームである。

女性が筋トレの良さを語り、筋肉の素晴しさを語る時代が来るとは夢にも思っていなかった。

 

20年近く前なら筋トレをする女性自体珍しかった。ましてやガチトレーニングをする女性なんて殆どいない。そんな時代から筋トレを続けてきた私にとって、筋トレの先生は雑誌「月刊ボディビル」「Ironman(アイアンマン)」「muscle and fitness」あたりの3誌だった。

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これらの雑誌はガチ勢ofガチ勢のためにあるので、本文もなかなか。

食事のアドバイスが「オートミールカップ」とか「卵白五個分」みたいな世界。食べるものだけで既に世界線が違う。

 

なら、(もうちょっとライトな雑誌読めばいいじゃん?)と、なるじゃないですか。

 

そこに位置するのが雑誌「Tarzan」なんですよね。

 

それがね、「Tarzan」って雑誌は筋トレガチ勢に言わせると「しゃらくせえ」雑誌なんですよ。
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筋トレだけにスポットを当てた雑誌ではないので、テーマも自転車だったり、ランだったり、ストレッチだったり。

そこに付随する筋トレ情報も、ガチ勢的には「ハイハイハイハイ(イキリのスピードとボリュームで)基本のヤツねー!」みたいな内容。

出てくるモデルもいわゆる"細マッチョ"で、人のカラダは「デカけりゃ優勝🏆」だと思ってるガチ勢的には物足りないったらない。

 

てなわけで、「Tarzan」は私の中で(ぬるい筋トレ系雑誌ね、OKオーケー)な位置付けだったわけです…、

 

岩本照さんの記事に出会うまでは。
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岩本照さん※がTarzanに扱われる前も、ちょいちょいジャニーズの方が特集されることはあったと思います(記憶はびっくりするほどおぼろげ&決めつけ)。

 

じゃあ、なぜ今回半年ぶりにブログを書こうと思い立つくらいに岩本照さんの特集に痺れたのかというと、

 

Tarzan」という雑誌の位置付けを自らの存在と肉体で定義したアイドルに初めて出会ったからだと思うんですよね。

 

結論から言うと、岩本照さんほど「Tarzan」という雑誌の位置付けを万人に理解させる説得力のある人はいないんじゃないかと思ったし、長年謎だった「Tarzan」という雑誌における「筋肉」の位置付けについての最適解を出したのも彼なんじゃないかと思った、ということ。

 

先述の通り、「Tarzan」は"しゃらくせえ"です。走るときのオシャレ眼鏡の提案とかしてくる意識の高さがあります。しかも「眼鏡」とは呼ばず「アイウェア」とか呼ぶタイプの意識の高さです。

 

殆どのページがオシャレ。ウェアもモデルもオシャレ。

 

でも、それが「Tarzan」なんです。

 

オシャレなの、最高じゃん?どうせトレーニングするならオシャレな方がいいじゃん。身体だってデカいだけじゃない、自分のなりたいスタイルを目指せばいいじゃん。楽しく。かっこよく。でもストイックに。

 

それを体現していたのが、ジャニーズ事務所所属のタレント、岩本照さんだったのです。

 

まず、写り方があまりにうまい。

これこそ、アイドルの成せるわざ。

筋肉を美しく、でも筋肉だけを主役にはしない。

と同時に「見せるべき筋肉」が一番美しく見える写り方。もうこれは芸術であり、スポーツです。

筋肉を愛した者なら分かる、「筋肉をリスペクトしている」写り方ができるのは、彼がアイドルという"被写体のプロ"であり"筋トレのプロ"だからだと思うほど。

 

 

そろそろ私の文章も、「筋肉を愛する人間特有のキモさ」を帯びてきたと思います。

 

そうなんです、筋肉を愛する人はネタでもキャラでもなんでもなく「筋肉ポエマー」になってしまいがち。

 

そんなポエマーの最高峰と言って間違いないのも岩本照さんなのです。

 

彼は誌上にて「筋肉吟遊詩人」の呼び名で呼ばれています。

 

腹筋は実の子供。他の部位は養子という感じ。

 

パンパンの張りを感じたら、前腕の中にいる人達が「今日はもう無理だ!」と悲鳴をあげてる証拠。

 

小人のサポートでダンベルを上げ下げ

 

うっとりします。

これは過去にアーノルド・シュワルツェネッガー先生の残した言葉

筋肉がNOと叫んだら、私はYESと答える。

を彷彿とさせる詩人ぶりです。

我々筋トレバカゴリラの心の声をこんなにも美しく言葉に紡いだ詩人、シュワちゃんか岩本照さんか、という気さえします。

普段「Tarzan」は手に取らないタイプのでっかいゴリラたちも、岩本照さんの紡ぐ言葉を聞いたら、その言葉は彼らの頭で福音のように鳴り響き、一瞬で彼を神のように称えることとなるでしょう。

 

要するに、岩本照さんは筋肉的に、

 

  • 画に力と説得力があって
  • 言葉に本気度とカリスマ性がある

わけです。

これは、ゴリラ系ガチ勢にもすぐに伝わるし、もっと素晴らしいことに「Tarzan勢」というカテゴリーを見事に体現した、ということなんですよね。

 

「なりたいカラダは自分で決める」

「決めたら努力は惜しまない」

 

というまさに「今」という感じのスタンスを確立し、それが「Tarzan」という雑誌そのものだと、存在をもって証明してくれた素晴しさ。

 

あわせて、「ジャニーズアイドルがアイドルとして活動するために筋肉で作り上げる最適なカラダ」という新ジャンルを圧倒的な肉体で証明したこと。

 

この功績は本当に本当に素晴らしい。

今まで、「Tarzanだから」という理由で手に取らなくてごめんなさい。十年以上謎だった「Tarzanの立ち位置」をあなたが教えてくれました。

その立ち位置はあまりに革新的で、それでいて昔から変わらぬスタンスで、スルーするのは勿体ないものでした。

 

昔から変わらぬスタンスで、「良いもの」や「良い在り方」はそのままに。

変えていくべき考え方や価値観は新しく。

 

そんな、古き良き、そして新しい岩本照さんの「Tarzan」記事は、筋トレガチ勢を痺れさせる。

 

こんな素敵な人に興味を持つきっかけをくれた「Tarzan」に感謝。

そして筋トレに感謝。筋肉に感謝。

 

筋トレバカは一生筋肉ポエマー。私も筋肉吟遊詩人目指して今日もスクワット100キロ続けよう。

 

 

 

 

※岩本照さん。ジャニーズ事務所所属。ジャニーズJr.のグループSnow Manの一員。身体能力を生かしてTBS系「SASUKE」にも過去3回出場。

 

 

 

 

「ジャニーズとジェンダー観の話」はめんどくさくないよ、って話

ここにきて、「ジャニーズのジェンダー観」が話題になっている。

 

正月の特番「関ジャニ∞クロニクル」の放送と、同番組に対する感想ブログがきっかけで、年明けからこの「ジャニーズのジェンダー観」に関する話題がSNS上で盛り上がって(?)いる。

 

私は関ジャニ∞というグループのファンなので、番組も見たのですが、(ファンでもこれはさすがにアカンやろ…)と感じる内容でした。

 

番組の内容がどうであったかは、きっかけになったブログにも詳細が書かれているので割愛しますが、

一言で言うなら「無邪気なくらいに無意識なジェンダー観と敬意の欠如」を露呈した番組だったと思う。

 

番組に関わる製作陣も演者も、誰もその「ヤバさ」にそこまで気付いてない。

もしかしたら、誰も純粋に「これが誰かを傷つけたり不快にさせるのでは…」とは殆ど思ってない。そんな空気を感じた。

 

ロケ経験値の高いメンバーも在籍していることから、「深夜、一人の女性に声をかけても立ち止まってはもらえないかも」という懸念は抱いていたのかもしれませんが、

どちらかというと、番組からのオーダーに応えるべく「この番組を少しでも面白くしなきゃ!」と真摯に取り組んでいたのだと思う。

 

そもそも、あの番組において、製作陣も演者も誰一人「誰かを不快にしてやろう」とは思ってなかったのではないかな、と私は考えています。

 

では、なぜ番組は「ジェンダー観と人に対する敬意が欠如している」と言われたのか。

 

それは、製作陣と演者の「圧倒的な想像力不足」によるもの、に他ならないのではないかな…と思っています。

 

「こうしたらこうなるだろう」

「こういう人にこれを言ったらこう思うだろう」

 

これらを"現在"に照らし合わせて考える想像力が足りなかった。

 

 

 

逆に

「こうしたらこうなるだろう」

「こういう人にこれを言ったらこうなるだろう」

も、

 

古いテレビの感覚に即した"テンプレ"が彼らの頭には経験として存在している。

 

 

一昔前のテレビの、

太めの女性がいればそれを笑いにしても良かったテンプレ。

女の人はみな、結婚をゴールだと考えているいうテンプレ。

女の人はみな、彼氏が欲しいと考えているというテンプレ。

女の人が好きになるのは、必ず"男性"であるというテンプレ。

ある程度の年齢になった女性は、大抵結婚していて"お母さん"という属性になっているというテンプレ。

 

など。

 

この"テンプレ"ありきで、テレビ番組は存在していた。

だから、「太めの女性」は笑ってもいい対象だったし、「結婚した~い」という女性をからかうのはOKだし、ある程度の年齢になって結婚はおろか、彼氏もいない女性は「何かあるのでは?」という位置付けにされた時代があった。

また、男性が「化粧に興味がある」なんて言えば、それに「おネエじゃないの?ニヤニヤ」とツッコまれる…までがワンセット、の時代。

 

 

 

 

 

ここで、「ジャニーズ」という人達についての話に変わりますが、

私の知る限り、ジャニーズのタレントさんは基本的に「習うより慣れろ」で仕事のイロハを習得する人達…というか、そういう教育方針の下に育った人達だと認識している。

 

ダンスなら前で踊るジュニアの後ろ姿から学び、バラエティなら番組に飛び込んでその場の空気と経験で成長していく…という感じ。

 

関ジャニ∞メンバーも、ジャニーズとして幼い頃から「習うより慣れろ」で成長してきた人達なのだと思う。

バラエティの現場においては、関ジャニ∞はジュニア時代からその「現場に飛び込んで覚え」た経験が人一倍だったのではないのかな…と想像します。

 

残念ながら、その時彼らの成長の場となったバラエティという「現場」は、上記の古い価値観による「テンプレ」だらけだったのではないかな、と思う。

 

彼らにとって、その古い価値観はいつしか、バラエティという戦場を生き延びるための「身体で覚えた財産」になっていたのかもしれない、良くも悪くも。

 

そこから月日は経って30代半ばの彼らになるわけですが、

私の想像を軽く超えるだろう彼らの多忙さにおいて、この「古い価値観」をアップデートする機会は少なかったのではないかな、と推測します。

また、芸能界でジャニーズのトップアイドルである…という環境は、世の中の変化を感じづらくなる一因にもなるのかもしれない、とも感じます。

 

 

想像を越える多忙さと、特殊な環境。

幼い頃からの経験と実績。

バラエティで評価されてきた自信。

 

あんなにカンが良くて、バラエティセンスの優れた人達なのに、

関ジャニ∞が、唯一「ジェンダー観」について欠如してしまったのは、こういう部分に原因があったのではないだろうか。

 

だからといって、私は「だからアップデート出来なかったのは仕方ない」とは一つも思っていません。

忙しさも環境も、アップデート出来ないことの言い訳にはならないし、あくまで私の推測でしかありません。

 

必要なアップデートはするべきだと思っています。

 

どこかで「アップデートしないのも個性。多様性を認めるなら、古い価値観をアップデートしない個性も認めるべき」という意見を見たけれど、それには賛同できません。

 

アップデートしなければならない理由は、

それが

「古い価値観だから」ではなくて

それが

「間違っているから(昔は間違っていると思われていなかった)」。

 

古い価値観でも、間違っていないものであれば、当然今も大事にされているはず。

淘汰されるべきは「間違った価値観」だと思っています。

 

だから、バラエティとしてテレビの電波で不特定多数の人に番組を届ける立場であるのなら、「間違った価値観」はアップデートが必要。

関ジャニ∞というグループについては、ひとりひとり本当に魅力的で、素晴らしい個性の持ち主達で構成されたグループだと思っているので、このアップデートがされれば無敵なのにな…と、ファンとしては歯痒く思っているところです。

 

それでも、個人個人で言ったら、間違いなくジェンダー観のアップデートをしているのを感じるメンバーもいます。

月曜から夜ふかし」での村上信五さんなんかは、数年前の発言と今の発言では、明らかにジェンダー観のアップデートがされていることが分かります。

 

人をサげたり、弄ったりするのがデフォルトの「夜ふかし」において、村上信五さんの抜け目ないフォロー発言は本当に素晴らしいと思っています。

それに関しては、彼のジェンダー観があるから「夜ふかし」は成り立ってる…と、ファンのひいき目無しに断言できるほどです。

 

「ジャニーズとジェンダー観」という話題に、SNS上では「あまり難しいこと言いたくない」とか「嫌なら見なければいい」とか、「文句ばっかり言ってると、テレビは何にも作れなくなる」とか、そんな声も聞こえてきましたが、

 

"ジェンダー"は難しくないです。

男であれ女であれ、属性による固定観念を持たないこと、と相手に敬意を持つこと。

これだけです。

それは女性だけを大事にしろ、という話でもないです。

「男の子なら泣かないの!」とか、

「男なら上半身裸くらい人前でできるだろ」とか、そういう属性による固定観念も無くしていこう、という話です。

 

忙しくても、話題になったニュースを自分以外の視点で考えてみたり、映画や海外ドラマをたくさん見るとジェンダー観は育ちます(これは超個人的決めつけですが、自信を持って言えることです)。

 

そうしていると、今回のようなことが起きたとき「何が悪いのか」が比較的明確になります。

すると、SNSでアイドルのジェンダー観についての議論が、避けなければいけないことでも、触れない方がいいことでもない…ということも分かりますし、

そんなに難しく考えることでもないと気付けます。

 

彼らが今回否定されたのはあくまで「ジェンダー観」だけです。

それを否定されたからと言って、彼らの全てが否定されたわけではありません。彼らの面白さ、音楽性の素晴らしさ、魅力…は、それで消えてしまうものではありません。

 

私たちは誰でも間違いを犯します。

間違った感覚なら修正すればいい。毎日そうやって人は折り合いをつけて生きています。

 

傷つけてしまった人がいるなら、誠意を持って謝罪して、これ以上同じことが起きないように自分の感覚を改める。

 

アイドルだけじゃなくて、全ての人がそうしているように、彼らを見守っていけたらいいと思いますし、番組全体が良い方向に進んでいってくれたら、と思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜアイドルオタクは「ボヘミアンラプソディ」にハマるのか

・「ボヘミアンラプソディ」がアツい。

・動員数がスゴイ!

・リピーターが多い「ボヘミアンラプソディ」、人気の理由は?


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映画「ボヘミアンラプソディ」の公開から約3週間、想定以上の(?)人気に、各種メディアでもこの作品の人気の理由などが語られ始めている。

 

その波はツイッターでも同様で、「ボヘミアンラプソディ」で検索をかけた時のヒット数は減ることがない。

中でも気になるのが「アイドルオタク界隈」での反応のアツさ。

 

映画公開初日から"アイドルでも俳優でも、舞台で何かを表現する人を好きになったことがある人は観た方がいい"というような内容のツイートを多く目にした。

私も全く同じように感じていたし、関ジャニ∞というアイドルグループを好きでいる者として感じたことをツイートやブログで言葉にもした。

 

ボヘミアンラプソディ」は、「何かを表現する人」を丁寧に描いた作品だと思ったからだ。

 

私はこの「ボヘミアンラプソディ」にハマりにハマって、これまでに計5回、「ボラプ」を劇場鑑賞したのだけど、回数を重ねていくうちに1つ気付いたことがある。

 

それは、映画の冒頭からラストまで、主人公フレディの周りには必ず誰かしらがいる、ということだ。

 

映画全体を通して、主人公フレディから感じ取れるキーワードは、

"孤独""孤高""才能""自信""愛情"…だったりしたのだけど、

 

中でも"才能"と"孤独"はこの作品中のフレディを形容するイメージに近いのではないかと思っている。

 

そんな"孤独"を感じさせるフレディなのに、作品中の彼の周りには冒頭からラストまで、常に誰かがいる。

家族、恋人、メンバー、マネージャー、スタッフ…、そしてファン。

 

そして、フレディは常に誰かから愛されている。

 

それなのに感じる"孤独"感。

 

この、常に誰かに必要とされて、常に誰かが周りにいる「スター」や「アイドル」という人達の"状態"。

メンバーに愛され、ファンに愛され。常に誰かに愛されてるのに、常に誰かに必要とされているのに、「埋まらない」空気。

 

もしかしたらわたしは、これを「スター」や「アイドル」の向う側に感じていたのかもしれない。

 

その、無意識下で薄々感じていた空気感を、映画というかたちで生々しいまでに映像化されてしまって、わたしのようなオタクの心は揺り動かされたのか。

 

ボヘミアンラプソディ」には、有名なラスト20分の他にも様々なライブシーンが織り込まれている。

その様々なライブシーンでは、彼らがファンからのレスポンスを受ける場面がある。

 

作中ではそれが大小のターニングポイントとなるのだけど、

その時こそが「埋まらない」感が、がっつり「埋まる」時 だったように思う。

 

ステージからのパフォーマンスや歌声にダイレクトに返ってくるファンのレスポンス。

これは、舞台で何かを表現する人を好きになったことがある者なら殆どが経験したことのある「瞬間」だ。

この時の現場の高揚感、気持ちの報われ具合い…は、例えようがない。

それを、「ボヘミアンラプソディ」ではフレディという「舞台で何かを表現する人」の目線で感じさせてくれた。

 

言わば、これは"答え合わせ"だったんではないだろうか。

私たちファンが、ライブであの瞬間に感じていた気持ちは、「舞台で何かを表現する人」と合致していたんだ…、という答え合わせ。

 

その他にも、この「ボヘミアンラプソディ」という作品の中にはたくさんの"答え合わせ"がある。

 

まずは、メンバー。

フレディという才能、個性…を時にぶつかりながらも正直に愛していることが分かる数々の場面。

レコーディングの時の子供同士のような笑顔。

互いの才能をリスペクトし合う空気感。

病気を告白した時の涙。

ステージで、フレディの気合いの「エーオ!」に思わず顔を見合わせて微笑む表情。

 

Queenを知らなくても、何故か「ああ、彼らは実際こうだったんだろうな…」と思ってしまうような気持ちが芽生える。

アイドルオタク的には"ライブDVD"や"メイキング"を見ている時に、(こういう瞬間がたまらないんだよ!)と思える瞬間が、様々な場面に散りばめられている。

オタクが思う「"メンバー"という存在の素晴しさ」の答え合わせだ。

 

続いて、スタッフ。

 

ああ、スタッフに愛される…って素敵だな。

「ライブエイド」で思わず笑ってしまったり、音楽にノリノリになる会場スタッフ。

ライブシーンに挟み込まれる彼らの様子を見て、(そりゃあ、彼らなら愛されるよなあ!)と、自分の気持ちをスタッフの反応に照らし合わせて答え合わせがされる。

 

 

そして、ファン。

 

ライブエイドで、この上なく盛り上がるファン。

性別年齢関係なく、現場にいるファンも中継を見守るファンも純粋に音楽に盛り上がる。

わかる。わかるよ。そうなるよね。

Queenの音楽を聴きながら、隣にいた人と思わず肩を組んでしまうファン。

わかる。わかるよ。

最後、涙が出てきてしまうファン。

わかる。わかるよ。

 

この映画の多くを占めるライブシーンにおける「ファン」の描写は、全部「あの時の自分」なんじゃないだろうか。

ライブシーンだけではない。

病院で「エーオ」と声をかけ、フレディの小さな「エーオ」に微笑んだあの少年も、ある意味「いつかの自分」、なのかもしれない。

 

この映画に多く挟み込まれる「ファン」の描写は「あの時の自分」の反応や気持ちの答え合わせでもあったのかもしれない。

 

そして、この作品を見終える頃、最大の答え合わせが出来る。

「ライブってやっぱり最高だよなあ!」と。

 

その気持ちをリードして確信に変えてくれたのは紛れもない、Queenという伝説のバンドの圧倒的な魅力に他ならない。

 

あの時代だからこその、空気感。

音楽もビジュアルも、ファンのノリも、今とは違う。今では絶対に手に入らないものの美しさや力をQueenは教えてくれた。

 

でも同時に、

今の時代に生きる「舞台で何かを表現する人を好きになったことがある者」も大切にしてる"宝物"に改めて気付かせてくれたのが、この「ボヘミアンラプソディ」なのだと私は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ボヘミアンラプソディ」を1週間で4回見た関ジャニオタクの話

私は映画とアイドルが好きだ。

 

 

見ている間、私に「夢」を見させてくれて、

 

見終わったあと、その「夢」を大切に現実に持ち帰ると、不思議と現実を頑張れる。

 

私が現実を頑張れているのは、映画やアイドルが与えてくれる「夢」があるから。

 

そして「現実」という世界の、様々な人や自然、モノ、言葉や感情…の素晴らしさの輪郭をハッキリとさせてくれているのは、

映画やアイドルたち、という「夢」なのだ。

 

私にとって、アイドルは「夢」だし、

大好きな映画もまた「夢」。

 

ただ、その「夢」である"アイドル"や"映画"を形成しているのは、

紛れもない「現実を生きる人間」なのだということ。

 

映画「ボヘミアンラプソディ」はそういう物語なのかもしれない。

 

 


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11月9日に「ボヘミアンラプソディ」が公開されてから約10日。私は計4回この作品を劇場で観ている。

映画が大好きで年間100本以上映画を観ている自分でも、このペースでハマった作品は初めてで、自分でも何が自分自身をそこまで突き動かしているのか、分かっていない。

でも、止まらないのだ。

 

軽い自己分析をすれば、そこには「確認欲求」みたいなものがあるのかもしれない。

自分の思い、アイドルという概念、喪失感…の確認である。

 

 

私はジャニーズの「関ジャニ∞」のファンなのだが、今年は関ジャニ∞というグループにとって、大きな出来事があった。

メンバーの渋谷すばるさんが脱退をした。

 

主にメインボーカルをつとめていた渋谷すばるさん。彼の歌声は「唯一無二」という言葉がピッタリだったし、歌唱力の高い他のメンバーの中においても、その歌声は「関ジャニ∞」というグループの名刺のように彼らの楽曲を、彼ら自身を輪郭づけていたように思う。

 

関ジャニ∞らしさ」という言葉があるのなら、2018年7月までの「関ジャニ∞らしさ」を担っていたのは、渋谷すばるさんだったのではないか…と、彼のファンである私は思っている。

 

そこで、ボヘミアンラプソディ」である。

 

ボヘミアンラプソディ」はイギリスのバンドQueenの物語。メインボーカルであったフレディ・マーキュリーの半生をドラマチックに描いた作品である。

 

その内容のドラマチックさ、ライブシーンの完コピぶりに大ヒットとなっているらしいが、その一方で言われているのは「史実とは少し違うよね?」という部分。

 

実際、作品の中で起きる出来事は事実と相違がある。細かい部分から大きな部分までいろいろと「脚色」されている。

 

それに関して、この作品の製作に関わったQueenメンバー、ブライアン・メイはこう言っている。

 

"完成した映画を観て、ワクワクしている。これは伝記映画ではなく、硬い岩から掘り出されたような、純粋なアートだ。"

 

この作品の製作にはQueenのメンバーであるブライアン・メイ(ギター)と、ロジャー・テイラー(ドラム)が関わっている。

 

自分達のグループの物語が映画になる時、製作に関わったメンバーが「史実とは少し違うよね?」と言われる作品を作ったこと。

 

作品を「伝記」にしなかったこと。

 

それを「硬い岩から掘り起こされたような純粋なアートだ」と話してること。

 

メインボーカル亡きあと、メンバーが製作に関わって作られた作品。

その作品が「史実と少し違う」と言われるのなら、それはメンバーが残したかった「Queen」の姿なのかもしれないし、フレディ・マーキュリーというメンバーへのラブレターなのかもしれない。

 

「現実」に向き合って向き合って、ファンに「夢」を与え続け、また「現実」に向き合い続けてきたQueenのメンバーは、このボヘミアンラプソディ」で自分達の「現実」を「夢」に変換したんじゃないだろうか…という気がしている。

 

「バンドは「家族」だ」こんな言葉が作品内で語られるが、これは家族へのラブレターなのかもしれない。

渋谷すばるさん、という人に関ジャニ∞メンバーからラブレターを送るならどんなものだっただろう。

いや、すでに音楽や言葉でたくさん送っているかもしれないし、私たちは彼らの送ったラブレターをたくさん見せてもらえていたのだと思う。

 

7月のメンバー全員での「関ジャニ∞クロニクル」や「関ジャム」で見た景色や音は、彼らが渋谷すばるさんに送ったラブレターだったのかもしれない。

 

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ボヘミアンラプソディ」を4回見た私は、4回とも同じところで泣いている。号泣だ。

老化により、涙腺が弛緩していることを差し引いてもヤバい。

 

1回目に作品を鑑賞したあと、興奮ぎみにツイートした。

関ジャニ∞好きな人なら、是非とも見てほしい…!!」と。

 

映画を愛する者として、「〇〇と重なる」的な先入観を持たせてしまう表現はしたくなかったのだけど、抑えきれなかった。

 

私のツイートを見て作品を鑑賞した方で、先入観を持たせてしまったことで作品をじゅうぶんに楽しめなかった方がいらしたらお詫びしたい。

 

ただ、私は渋谷すばるさんが脱退を表明した日から、何をしても完璧に確認できなかった自分の思いや、アイドルという概念、喪失感の原因…を思いがけず「映画」という外部に教えてもらえたことが、あまりに衝撃だったのだ。

 

それくらい、「重ねて」しまう映画だった。

 

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ライブエイドのリハーサルで自らの病気をメンバーに告白するシーン。

 

初めて客席から"歌声"というレスポンスが返ってきた時のフレディの表情。

 

「エーオ!」というフレディのコールに何十万のファンがレスポンスをする。テンションが上がったフレディの更なる「エーオ!」に含み笑顔で目を合わせるメンバー。

 

―――――

 

関ジャニ∞を好きなファンには、今年は色々なことが起こりすぎた。

その度思い知ったのは、彼らは「アイドルという職業を選んだ一人の人間」である、という現実。

 

分かりきった事実だし、それを尊重した上で応援してきたファンでも、改めてこのことを考えずにはいられない出来事が多くあった。

 

彼らを取り巻く「現実」の上に、ファンに与えられる「夢」は成り立ってる。

 

「現実」と地続きのところに「夢」を創造できるアイドルというプロに、「お前の"現実"をもっと見たい」と言うファンがいる。

 

それが、どれだけ無茶なことか。

あの当時、自らのセクシュアリティをマスコミに問いただされたフレディ。

 

ステージや、テレビ、音楽という彼らの与える「夢」だけでは満足できないのか。

 

作品中で見るフレディは、ステージの外において、常に臆病で、自信がなく、人の顔色をうかがうような表情を見せる。

 

その表情はステージに上がると一変、自信がみなぎり、ファンのレスポンスを受けたフレディの眼には「スター」たる光が灯る。

 

ファンが「現実」の不満や物足りなさ…を埋めるために、アイドルやスターに会いに行く時、

アイドルやスターもまた、「現実」の不満や物足りなさを、ファンの表情やレスポンスで埋めているのかもしれない。

 

そんなことも思った。

 

―――――

 

先程(11月19日)ツイッターで、関ジャニ∞ライブの最終日、メンバーの錦戸さんが「エーオ!」のコールをした、という話を知った。

 

その時、錦戸さんは「やってみたかったし、やるなら今しかないと思った」というようなことをおっしゃっていたらしいけど、その気持ち、すごく分かる。

あの映画は、間違いなく何かを「与えられて」それをどこかに持ち込んで、「発散したくなる」映画だ。

 

Queenの音楽を片っ端から聴きたくなるし、ライブエイドの映像を見たくなる。

「ウィーウィルウィーウィルロックユー!」と歌いたくなるし、感動を語りたくなる。

 

「現実」を突き動かす、映画という「夢」がボヘミアンラプソディ」なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日、好きなものを疑わなくてはならなくなったら

何かを好きでいる。

何かのファンでいる。

 

この気持ちが「揺らぐ時」があるとすればどんな時だろう。

 

好きなものや好きな人を中心に生活が回っているような、いわゆる「オタク」をしていると、そんな日は永遠に訪れないような気がする。

 

では、

「好きなものに関わる人が犯罪や、不祥事を起こした時」はどうだろう。

 

映画「ブリグズビー・ベア」

を観ながらそんなことを考えた。


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両親と3人で暮らす25歳のジェームス。幼い頃からジェームスはある作品"のみ"を見て過ごしてきた。

定期的に家に届く教育系ビデオ「ブリグズビー・ベア」だ。

いつしか、ジェームスにとって「ブリグズビー・ベア」はヒーローになり、唯一の友だちになっていた。

閉ざされた空間で、今日もジェームスは「ブリグズビー・ベア」を見る。

 

ある日、ジェームスの両親は逮捕される。

ジェームスが"両親"だと思っていた二人は、25年前ジェームスを誘拐した誘拐犯だったのだ。

 

"両親"が逮捕されて以降、ジェームスの元には「ブリグズビー・ベア」が届かない。

「ブリグズビー・ベア」を制作し、ポストに入れていたのはジェームスの"両親"だったのだ。

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というのが、この作品の始まり。

 

ジェームスは「ブリグズビー・ベア」を愛している。

愛しているけど、その作品を作ったのは「自分を誘拐した"誘拐犯"」に他ならないのだ。

 

 

 

 

作者や出演者の犯罪や不祥事などで、その人物が関わる作品がお蔵入りしたり、編集されたりするのを私たちは何度も見てきた。

 

 

罪を犯した以上、擁護はできないし、

不適切な発言をしてしまったり、不祥事を起こした事実はどうにもできない。

それが事実である以上、私たちに出来ることは何もない。

 

 

目の前には「好きな人」、「好きなもの」が昨日までと同じように存在する。

 

それを昨日までの自分と同じようには見られなくなってしまう。

 

または、

好きであることには変わりはないが、昨日までの自分とは明らかに違う受け止め方で「好き」を続けている。

 

 

犯罪や不祥事そのもの「だけ」ならいくらでも断罪できるのに、

そこに「好きな人、もの」という、オタクとしてかけてきた「時間」や「情熱」というフィルターが絡むと感情はいきなりやっかいになるのかもしれない。

 

 

自分の好きだったものは、「好きでい続けたらダメなもの」なのか。

 

自分がかけてきた時間や情熱は、ムダだったのか。

 

自分の中の「好き」を肯定するためには、事実として語られる犯罪や不祥事そのものを見なかったことにしなければならないのか。

 

こんなことを考えるかもしれない。

 

しかし、どう悩んでも悩まなくても、そこにあるのは、

・犯罪や不祥事を起こした(といわれる)事実

・それを好きだった自分

・そこに情熱をかけた時間

 

だけ。

それ以上でも以下でもない。

 

好きだったあの頃が、これ以上ないくらい楽しかったという事実も変わらない。

 

 

 

 

「ブリグズビー・ベア」に話を戻す。

主人公ジェームスは、自分の愛した「ブリグズビー・ベア」が

"両親と偽った誘拐犯"の作った作品だと知り、

世界には「ブリグズビー・ベア」以外の素敵な作品が溢れていると知っても尚、

「ブリグズビー・ベア」を愛し、更にはこの作品の続編を自分で作ろうとした。

 

実の親に「この作品は犯罪者が作った作品だ!」と激昂されても尚、だ。

 

周りがそれを何と言おうと、その作品に関わる人間が何をしようと、

自分がその作品を愛していた事実は変わらないからだ。

作品を愛していた時間はかけがえのないものだったからだ。

 

自分の愛したその作品やその人…それがもはや「自分の一部」となってしまっているのである。

 

「自分の一部」を形成しているものを簡単には憎めるはずがない。

誰が何と言おうと。

 

 

ジェームスは、自分の好きな気持ち、愛する気持ちを誰にも邪魔させなかった。

 

罪は罪と認めた上で、起きてしまった不祥事に関わる作品や人物を否定することもしなかった。

 

私はその結末が美しいと思ったし、とても納得のいくものだとも思った。

 

でも、それだけが正解ではない。

 

どんなにかけがえのない時間を過ごしてきても、どんなに愛してきたとしても、その「好き」という気持ちを貫くのが困難になる"線引き"は人それぞれに存在する。

 

その"線引き"が何であれ、その気持ちを他人が否定することもしていいはずがない。

 

「好き」という気持ちが共通点だったはずの人間同士でも、

 

"線引き"が違えば同じ気持ちを継続できるとは限らない。

 

その気持ちの変化を誰も責めることはできない。

たとえ、一度「好き」の継続を諦めた人が再び同じ人を好きになるのを見たとしても。

 

 

オタクの数だけ、「好き」の形も存在する。

 

逆に言えば、それだけの数の「好き」の形が存在する中で、「同じ瞬間に」「同じ目線で」気持ちを共有できることは奇跡なのだと思う。

 

その奇跡を味わいたくて、オタクは今日もツイッターの言葉の海を泳いでいるのかもしれない。

 

そして、どの気持ちにもどの言葉にも、そこに愛があるのなら、誰にも邪魔はできないのだと私は思う。